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書き散らしてる

二項対立やめろ

あたらしい価値観のもとでは、二項対立的な考え方もあやういのではないか。二項対立って、この不明瞭な世界の関係性を、あまりにも鮮やかに描きすぎてしまえると思いません? 私は文章を読んでいて、二項対立が出てきたらまずそこを疑う。

言語によって世界の観方を得るように、二項対立によって二項対立的な世界観を得る。二項対立はあまりにも単純すぎる。その単純さで、この世界の複雑性が失われてしまう。複雑性は豊かさそのものなのに。

例えば二項対立を論の軸とした、東西の比較文化論でも書いてみたらすぐわかる。二項対立に当てはめるために、どこかで無理が生じているのに、できあがった論を読むと違和感を見過ごしてしまう。人は二項対立が大好きだからごまかされる。

ちょっと話は逸れるのだが、巷でよく目にするアートとデザインはどう違うか論もやめたほうがいい。比較することで本質が隠されてしまっている好例だろう。デザインだって時には飛躍するし、アートだって時には確かなものだ。二項対立はあまりにも正確性に欠けるのだ。

「今わたしが見ているアート」/「今わたしが見ているデザイン」。可能なのはそれぞれの、個別的な経験だけだ。

 

(余談)実際的なことをいうと、私には現代のアートとデザインの両者がかなりの部分オーバーラップして見える。時々だが、自分が見ているのがアートなのかデザインなのか混乱することがある。それで、ふたつを単純に比較することが不可能だし、意味のないことだと痛感させられる。

 

少なくとも、アートとデザインは、ねじれの関係にあると言えるのではないか。ある角度から見れば、両者はピタリと一致する。別の角度から見れば平行線、別の角度では対立しているように見える。自分が見たいように見るだけなら、世界はさぞかし単純明快に見えることだろう。

安易な関係性を見出そうとする試みは、大事な本質を隠してしまう。しかし私たちは基本的に、本質ではないものへと向かってしまう性をもつようだ。というのも、私たちにはおそらく、安易に比較したい衝動、世界を単純に観たいという衝動がある。

シュタイナーは、すべては関係性の中にある、みたいなことを書いていた。たとえば、塩というものを記述しようとする時に「舐めるとしょっぱい」とか、「水に溶ける」とかいうことが言える。

でもこれって実は塩そのものの記述ではない。塩と舌、あるいは塩と水の関係性を述べているだけだ。実は私たちは、別の何かとの関係性の中でしかそのものを記述できない。

だから、「比較」というものは、人間の知性の深くまで根ざしているにちがいない。そんなにも根源的なものから遠く離れることは難しいだろう。しかし、安易な思考から逃れた先に、大事なものがあることは確かだ。それはたとえば個別性、個別的な経験だ。

 

まとめると、「俺らってすぐ何かと何かを比べたがるよね。でもさ比べても何にもなんないよ。例えばさ、人と比べたって、自分のことはわかんないよね」ってな感じです。